ガート

火葬場があるガートまで行って来た。
そこでは遺体が薪に載せられ、また遺体の上に薪を載せ、そのまま燃え上がる。
火がくべられて30分、遺体はひたすら燻され煙を上げ続ける。
人間の身体は水袋の様な物で、まず水気を蒸気としてとばさないと遺体は燃え
始めない。
遺体を包んでいる白い布が燃え尽き、茶色い足がそのまま見える。
その足が次第に干上がり、カリカリに焼けて行く。
そこまで見て、もういいやと思った。


日本での火葬は、煙突の先端から立ち上る煙からしか遺体が燃える様を視覚的に
認識出来ない。
筒状の物の先端から迸り母親の胎内に宿った生命が、また筒状の物の先端から
空へ立ち上って無へ還る。そんな隠喩から人生を考える。
ここインドでの火葬は全てを白日の下に晒し、その上で人生を目の前に
突き付ける。
しかし、これも人為的に演出された一つの様式にすぎない。


火葬場のインド人が両腕を広げて吐く「これが人生だ。」という芝居じみた台詞
が白々しい。
あからさまに燃える、かつて人間だった物を見ても心には何の変化も無い。
そこに何かを感じる程、もう自分の感性は若くないのかもしれない。
同年代の人間も、そろそろと色んな理由で死に始めている。
それがいつ自分の身に起こるかもしれない。


人生って何、そういう問いはあまり必要の無いところに居るのかもしれない。
とりあえずは、人生とは経験であり、他者の記憶であり、繋がりであるとする。
そのくらい中間的な方が、平衡がとれる。
また、その時が近づいたらそれなりの答えを捻り出す事だろうし。